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「ウェーバーは罪を犯したのか――羽入-折原論争の第一ラウンドを読む」

 

橋本努

(はしもとつとむ 北海道大学大学院・経済思想/政治哲学)

雑誌『未来』20041月号(No.448) pp.8-17. 掲載稿

2003/12/03提出

 

 

はたしてマックス・ウェーバーは知の犯罪者なのか。羽入辰郎の労作『マックス・ヴェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房、二〇〇二年、以下「羽入書」)によれば、ウェーバーはその主著とされる『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下『倫理』)において、いくつかの意図的な資料操作を行っているという。例えばウェーバーは、ルターやフランクリンの原著を調べず、当時のドイツ語普及版を参照するだけで都合のよい資料選択を行っており、その結果として、論証全体に致命的な欠陥があるというのである。もし羽入のこの考証が正しいとすれば、知識界は容易ならざることになるかもしれない。というのも、戦後日本の知識人たちはみな圧倒的な「ヴェーバー体験」(例えば、山之内靖著『日本の社会科学とヴェーバー体験』築摩書房、一九九九年を参照)を共有しつつ、その学的権威を認めてきたからだ。羽入の挑戦は、「知的権威に対する根源的疑義」として受け止められねばならないであろう。学問の象徴たるウェーバーが「知の詐欺師」であるとすれば、「知識人たちはみなウェーバーに騙されてきた」、「ウェーバーから学びウェーバーを伝承する者は、犯罪者の犯罪に荷担して害毒を撒き散らせてきた」、「知の巨人を崇拝してきた者は知的に不誠実であるか間抜けである」、ということになるのだから。羽入は言う、「知的でありたい」などという「欲を抱くから、この知的な悪魔[ウェーバー]に騙されるのである。今はただこの死せる悪魔のために、一生を費やした多数の学者達の不運を思うばかりである」(羽入書、一九七頁)

羽入の主張においてとりわけ批判の矢面に立たされているのは、ウェーバー研究者たちである。故人大塚久雄は措くとしても、例えば内田芳明、山之内靖、折原浩などの各氏がいかに応答するのか、衆目の関心を呼ぶところであろう。そしてこの度折原は、羽入に対する本格的な批判の書『ヴェーバー学のすすめ』(未来社、二〇〇三年、以下「折原書」)を上梓した。本書において折原は、羽入の挑戦を真っ向から受け止めるべく、「ヴェーバーの特別弁護人」を引き受けるという。しかもその内容は、かなり成功しているように思われる。もとより小生は、論争の詳細を判定するだけの文献学的力量をもちあわせていない。しかし両者の立論を読むかぎり、羽入の議論においてほとんど反論不可能だと思われた箇所についても、折原は徹底した考証と検討によって、説得力のある反論を展開している。一年前の書評(「朝日新聞」二〇〇二年十二月十五日)において私は、二つの論点において羽入に好意的な評価を下したが、いまやこれらの論点までもが、折原の驚くべき論証力によって揺らいでしまったかのようにみえる。はたして羽入の研究は、折原の反論によって失効させられたのか。以下に二人の主張を検討してみたい。(なお折原は、羽入からの応答を予期して、すでに論争の次の段階を準備していると述べている。したがって本稿は、論争の暫定的な検討になるかもしれない。)

 

 

第一の論点:『倫理』の論証構造全体は揺らいだのか

最初に取り上げたいのは、論争全体に関わる問題である。すなわち、はたして羽入が主張するように、氏の考証によって、『倫理』全体の論証構造は揺らいだのであろうか。折原によれば、羽入は『倫理』の中のあまり重要でない部分を問題にしているにすぎず、また「『倫理』の全論証構造とは何か」という問題に適切な答えを与えていない。その結果として羽入は、「木を見て森を見ない」視野狭窄に陥っているという。

確かに羽入のウェーバー批判は、『倫理』の中心テーゼを否定するものではないだろう。ここで中心テーゼとは、「カルヴィニズム以降のプロテスタント平信徒たちの自己救済行為、すなわち天職への奉仕と禁欲というものが、歴史的にはその意図せざる結果として、中産階級の勤勉精神や、徹底した利潤追求と簡素な生活に基づく資本蓄積をもたらした」という命題である。羽入はこのテーゼを否定していない。むしろ直接には、『倫理』における次の二つの補助テーゼを問題にしている。

「補助テーゼ(1)」:近代の職業精神は、ルターのいわばアモルフな(どちらの方向にも行ける)エートスに由来するものであり、そこからさまざまな歴史的影響関係を経て、ルターから他の諸国のプロテスタント諸派に伝播していった。

「補助テーゼ(2)」:フランクリンの教説に見られる人生観は、プロテスタンティズムの倫理とは直接の関係を失った、近代の職業精神を示すものである。

これら二つの補助テーゼに対して羽入は、(1)については、その因果関係が『倫理』において論証されていないと批判し、(2)については、フランクリンの教説は十分に世俗化されていない(羽入書、第四章)と同時に十分世俗化されすぎている(同書、第三章)、と批判する。

これらの批判がもつ意義については後に検討するが、いずれにせよ、羽入の論点は『倫理』の導入部分における二つの補助テーゼに関するものであり、中心テーゼを揺るがせてはいない。

しかし羽入の観点からすれば、ウェーバーの『倫理』は「知の傑作」とみなされる以上、その補助テーゼもまたテキスト全体にかかわる重要な部分である、ということになろう。ではいったい、導入部の補助テーゼは、どのような仕方で「全体の論証構造」と関係しているのだろうか。争点となるのは「『倫理』全体の論証構造」の理解であるが、どうやら私たちはこの定義を共有していないようである。したがってもし羽入がこの問題に応答するのでなければ、論争は基本的な点で明瞭になっていない、ということになるだろう。

 

 

第二の論点:ウェーバーは知的に不誠実な人間なのか

 上記の論点が解決されないとしても、しかし羽入の議論は、検討に値する問題を提起している。すなわち、一次資料の裏づけをめぐる「知的誠実性」の問題である。羽入の観点からすれば、たとえ一箇所であっても致命的な資料操作が見つかれば、それは「知の犯罪」に値する。しかしはたして、ウェーバーは、知の犯罪者、あるいは知的に不誠実な人間とみなされるべきなのだろうか。

 これに対する折原の応答は、次のようにまとめられよう。まず、一次資料による裏づけは「知的誠実性」の唯一の(あるいは最重要な)規準ではない。一般に、現実の経験的研究者は、規範的格率だけでなく、研究上の経済という合目的性の格率にも従って研究を進めており、両格率のせめぎあいの中に立たされている。ウェーバーの場合にも同様であって、『倫理』は研究方針において自己制御の効いた「引き締まった作品」である。これに対して羽入のウェーバー評価は、一次資料の裏づけのみに焦点を当てる「狭められた知的誠実性規範」を持ち込んでおり、ウェーバーに対して無理解な、倫理主義的裁断になっている。しかもこうした裁断の背景には、「ヴェーバー研究者憎しの抽象的情熱」があるのみで、個人として固有の問題設定が見られない、と折原は論難する。

このように折原によれば、一般に一次資料の裏づけがなくても、「知的不誠実」の罪を問われるわけではないという。これは健全な判断であるだろう。というのも、もしすべての学者が一次資料に当たらなければならないとすれば、その規範はかえって知の成長を阻害してしまうからである。しかしいったい、ウェーバーがある箇所の一次資料を参照しなかったことは、どの程度の落ち度とみなされるべきなのか。それは見逃しうる不備なのだろうか。それとも、「詐欺」として人格的に責めを負うべき事柄なのであろうか。

この問題は、ウェーバーにどの程度の権威を帰属するのかという問題と密接に結びついている。知識社会学的にみるならば、次のようなことが観察されるであろう。まず一般論として、ウェーバーの書物に挫折を味わった学者ないし学生は、存外に多い。またその挫折感は同時に、一方ではウェーバーに対する畏怖の感情を呼び起こしてきたが、他方ではウェーバーに対するルサンチマンの感情を生み出してきた。とりわけ、六〇年代後半から七〇年代前半における大学大衆化の時代にウェーバーの書物に触れた世代は、この相反する二つの感情を強烈にもっているようだ。そして今回の羽入-折原論争の背景には、そうした特殊時代的な状況が大きく作用していると考えられる。およそ「知的誠実性」をめぐる中立的な評価というものは存在しないが、本論争は、ウェーバーの読者たちがもつアンビバレントな感情の両極を、両者がそれぞれ代弁しているようにもみえる。

私自身はといえば、遅れてきた世代のウェーバー読者あるいは広義の研究者として、この問題に距離を置いている。というのも現代においては、ウェーバーの権威効果はかなり弱まっているからである。「学問は偶像崇拝と偶像破壊の同位対立を超えたところにある」という折原の主張を、私は真摯に受け止めたい。またウェーバーの「知的誠実性」概念について言えば、私はこれを「経験的な事実確定と実践的な価値評価を区別」し、「知性の固有領域の基準に服すること」という意味で理解している(拙著『社会科学の人間学』勁草書房、一九九九年、六五頁)。この定義から言えば、一次資料の裏づけ作業は、「知的誠実性」の一部にすぎない。知的誠実さを問うべき重要な場面とは、むしろ、実践的な価値評価に関わる問題について、その言語化をできるだけ押し進めることである、と私は考えている。

 もっとも羽入の貢献を評価して言えば、氏の批判は、ウェーバーが「あるべき学者の鑑」(二六四頁)として、あるいは「聖マックスと呼ばれるべき偉人」(二八〇頁)として受容されてきた文脈(アカデミズムを取り巻く文化領域)を解体することに成功しているのだと思う。ある一定の文脈においては、「ウェーバーは一次文献を当たっていなかった」という事実を示すだけでも、十分な偶像破壊効果をもつであろう。また『倫理』においてウェーバーは、ブレンターノの学説を文献学的に批判していることから、文献学者としても一流であるとの印象を受けるが、しかしこの点に関するウェーバー評価は、羽入の批判によって相対化されたと言えるだろう。

ただし、偶像視を排してウェーバーを一社会科学者としてみた場合に、それでもなおウェーバーが知的に不誠実な人間だと非難できるのかどうかは疑わしい。また、ウェーバーに対する偶像崇拝やルサンチマンを共有しない人々にとって、羽入のウェーバー批判はいかなる意義を持つのか、という問題もある。以下に具体的な論点を追うことで、議論を深めていきたい。

 

 

第三の論点:ルターはイギリスのプロテスタント諸派に直接の影響を与えたのか

羽入のウェーバー批判は、具体的には次の三つの問題をめぐるものである。第一に、「ルターはイギリスのプロテスタント諸派にどのような経路で影響を与えたのか」という問題、第二に、聖書の『コリントI』をめぐるルターの翻訳作業をめぐる問題、そして第三に、フランクリンと「資本主義の精神」をめぐる問題である。順を追って検討しよう。

ウェーバーは『倫理』において、聖書翻訳に携わったルターたちの精神が、他の諸国のプロテスタンティズムに影響を与えていったと述べている。しかし羽入によれば、ルターが聖書のドイツ語訳(旧約外典『ベン・シラの知恵』(以下『ベン・シラ』))において採用した「職業(Beruf)」の概念(その意味は「世俗的な職を全うすることが神輿の使命に適う」ということ)が、イギリスのプロテスタント諸派による聖書の英訳作業に対して直接の影響を与えたことは論証されていない。またその際、ウェーバーは当時の英訳聖書(『ベン・シラ』)を調べず、別の典拠(『コリントの信徒への手紙I(以下、『コリントI』))の二次文献を調べただけであり、このことは論証の杜撰さを示しているという。

この批判に対して折原は、次のように応答する。まず、ウェーバーは『ベン・シラ』のドイツ語訳における「職業」の概念が、英訳に対して直接の影響を与えたとは述べていない。ウェーバーは、『ベン・シラ』がルターたちによってドイツ語に訳された「そのころから」、この言葉の用法がプロテスタントの優勢な文化国民の諸言語に普及していった、と述べているにすぎない。つまりウェーバーは、訳語の直接的な影響というよりも、精神文化の間接的な影響関係を想定しているのであり、『ベン・シラ』だけに焦点を当てる羽入の問題設定(折原はこれを「唯『ベン・シラの知恵』回路説」と呼ぶ)は、擬似問題の創成にすぎないという。ウェーバーは、訳語の影響関係を調べることによって「ルター発の言霊が形を変えずに伝播していく」という考え方を論証しようとしていたわけではない。伝播の過程には、当然、歴史の複雑な因果関係があると推定される。もっともウェーバーは、この歴史的影響関係を『倫理』の主題としてはいない。またウェーバーがこの点に関して一次資料を調べなかったことについて、ウェーバーを「万能学者/知的英雄」として偶像視するのでなければ、この種の批判によって「『倫理』全体の被る損傷は、軽微の域を出ない」(折原書、六五頁)。さらに、ウェーバーが一見すると無関係に見える『コリントI』を参照していることには、思想的な意味連関において確たる理由があるという。

以上が折原の反論の要旨である。いずれも有効な代替的解釈であるだろう。しかし、かりに折原の反論がすべて正しいとしても、ある重要な論点が残る。すなわち、『ベン・シラ』の当該訳語を通じてルターの精神が他国のプロテスタントに影響を与えたのでなければ、ルターは実際にどのような仕方で他国のプロテスタントたちに影響を与えたのか、という問題である。この問題は、ウェーバー研究の範囲を超えて、事柄に即した歴史研究を要請するものであろう。なるほど『倫理』を一読しただけでは、この種の問題は当然、ウェーバーあるいは当時の歴史学者たちによって検討されているとの印象を受ける。しかし羽入のウェーバー批判は、この問題が一つの歴史研究課題となることを示していると言えよう。

 

 

第四の論点:『コリントI』七章二〇節の意義をめぐって

 次に、本論争の最大の焦点となる問題、すなわち、羽入が「世界ではじめての発見」と自称する貢献について検討してみよう。その論点とは、ルター訳聖書の一部『コリントI』には「職業(Beruf)」という言葉が見られない以上、それが同訳の『ベン・シラ』に影響を与えたとする仮説は成り立たない、という氏の主張である。羽入によれば、ウェーバーは当時の「普及版ルター聖書」に依拠した結果、その校訂過程を無視した杜撰な論証を行った、というのである。

 これに対する折原の反論は、ダイナミックかつ緻密な、驚くべき論証となっている。それはルター解釈の専門領域にまで踏み込むものであり、かなり高度な内容になっているが、その論旨を要約すれば次のようになるだろう。

第一に、羽入がいうところの訳語の影響関係は、ウェーバーの説明に関する一つの解釈にすぎず、別の解釈を立てることもできる。第二に、ルター訳の『コリントI』七章の該当箇所にBerufという言葉が用いられていないとしても、ルター本人の思想的展開(教会身分構造の否定とすべての「生活上の地位」の同等性を主張する段階から、与えられた職業と身分に留まるべきだとする伝統主義と摂理信仰へ、そしてその宗教的かつ反貨殖主義的な特徴の世俗社会への適用への展開、そこからさらに神の摂理を重んじる伝統主義への傾倒)を踏まえて解釈すれば、『コリントI』該当箇所の「rufklēsis)」という言葉が媒介となって、『ベン・シラ』における訳語選択(Berufの採用)に影響を与えたとする解釈が成り立つ。第三に、ルターの訳語は、一つの原語に逐一同一の訳語を割り当てるという機械的なものではなく、文脈ごとに異なり、ルター本人の精神や思想と密接に関係している(とくに『知恵』と『箴言』のあいだの訳語関係をめぐる羽入の議論は、ルターの思想的変遷を踏まえていない)。また “ruff” beruffの使い分けに関して言えば、ルターはこれを歴然と使い分けていたわけではない、と考えられる(同様の指摘がルター研究者によってもなされている)。第四に、ウェーバーが指摘するルターの訳語の揺れは、時間的なものではなく、いくつかのテキストにまたがる「空間的な揺れ」であると解釈することができる。そしてその場合、『コリントI』ではなく『エフェソ』が問題となる。第五に、普及版のルター聖書において、『コリントI』当該箇所の “ruff” が、ルターの死後にberuffに変更されて統一されるという事実は、ルターの思想における大衆宗教的なモメントが、ルター派の内部で継受されていったことを示している。こうした継承関係がある以上、ウェーバーが当時の普及版ルター聖書を確認するだけで済ませたことは、さしあたり十分だったという。

 以上が折原の反論である。いずれも一定の説得力をもつものであり、またそれぞれの論点が相互に結びついて、全体として一貫した代替的解釈を示していると言えるだろう。折原のこの応答によって、論争は一段階高次化したように思われる。はたして羽入と折原のいずれの解釈が正しいのか。この問題はウェーバー研究を超えて、ルター研究にまでその判断を仰がなければならない。したがって論争の現段階では、この点に対する評価を控えなければならないが、もし折原説に対する有効な反論が提出されなければ、現時点では折原の反論に一定の説得力があるとみなしうる。

ただし、仮に折原説が正しいとしても、なぜウェーバーは当該箇所の一次文献を参照しなかったのかという疑問は残る。また逆に、羽入説が正しいとして、ではこの点がどれだけ決定的な批判なのか、という問題は残る。さらに、もう一つの疑問として、はたして折原説は、ルター死後のルター派による翻訳改訂作業にも、ウェーバーがいうところの「翻訳者たちの精神」が現れていると見なしているのだろうか。もしそうだとすれば、これは『倫理』をめぐる一つの興味深い仮説であるにちがいない。

 

 

第五の論点:フランクリンと「資本主義の精神」の関係をめぐって

 最後に、羽入書の後半をめぐる論争、すなわち、フランクリンと「資本主義の精神」の関係について検討してみたい。羽入は、ウェーバーが理念型として用いる「資本主義の精神」(たんなる功利的な道徳ではなく非合理的なエートスを含んだ生活原理)をめぐって、ウェーバーはこの理念型の素材をフランクリンの説教に求めているが、その構成の仕方は、フランクリンが『自伝』で述べている自身の生き方と整合しないと批判する。第一に、ウェーバーは「資本主義の精神」という概念をフランクリンに適用する際に、フランクリンの『自伝』における「神の啓示」に言及しているが、この個所は、フランクリンが実際に徳に向かった動機を示すものではない。第二に、フランクリンの倫理は「非合理的超越」を含まない功利主義であり、「資本主義の精神」に含まれる非合理的要素(エートス)を含んでいない。第三に、ウェーバーは「資本主義の精神」を「すでに宗教的基盤が消滅してしまったもの」として構成しているが、しかしフランクリンを引用する際に、フランクリンの生き方がカルヴィニズムの特徴を示している事実を意図的に無視している。第四に、フランクリンが『自伝』において引用している聖書の「職業」概念(『箴言』二二・二九)が、ルター訳聖書においてはBerufと訳されていない以上、ウェーバーはフランクリンから古プロテスタンティズムに遡るという『倫理』論文全体の構想を破棄するか、あるいは、フランクリン以外を素材として「資本主義の精神」という理念型を構成すべきであったという。

 以上が羽入によるウェーバー批判である。これに対して折原は、およそ次のように応じている。第一の論点について、「資本主義の精神」(折原はこれを「近代市民的『職業観』」と言いかえる)という理念型の構成と適用は、ウェーバーにおいてはその目的がフランクリンという人物の複雑な総体を捉えることではない以上、その一次資料が例示手段として適切でなければ、例示手段を別のものに求めればよい。この種の批判によって当の理念型が棄却されることはない。第二・第三の論点について、羽入は、一方ではフランクリンの宗教性を想定せず、他方ではこれを想定するという両極の観点からウェーバーを批判しているが、これは一貫した批判になっていない。また羽入は、ウェーバーが「宗教的なものとの直接な関係はまったく持たず」と述べているところを、「無宗教な功利主義」の意味で解釈するが、しかし折原は、そこには当然「宗教の間接的な影響」を想定できると反論する。さらに、フランクリンが言及している神は、羽入の解釈するような「カルヴィニズムの予定説の神」ではなく、意味的に深遠な差があるとみる。後者の神は「祝福を求める者の願いを聞きたまわない神」であるのに対して、前者の神は「その願いを聞きたまう神」だからである。最後に、第四の論点その他について、羽入の主張は、言葉の外形的同一性に囚われており、意味の歴史的因果連関を無視した没意味的文献学に陥っている。ウェーバーにとって、ルターとフランクリンの訳語の直接性(精神の無媒介的連関)を論証することなど、問題とされていないという。

 以上が折原の反論である。いずれも妥当な応答であるだろう。なるほど羽入が指摘するように、フランクリンの「啓示」に関するウェーバーの取り扱いには難点がある。しかしこれはさほど大きな問題ではない。重要な争点はむしろ、「資本主義の精神」と「フランクリンのいう神」との関係である。おそらく羽入は、次のように想定している。すなわち、「資本主義の精神」という理念型が構成される素材となったフランクリンの生き方は、多分にカルヴィニズムの宗教性を含んでいる。したがって「『プロテスタンティズムの倫理』が『資本主義の精神』へと世俗化していった」という歴史仮説を、フランクリン経由で説明することはできない、と。しかし折原が指摘するように、フランクリンのいう神は、いわゆるカルヴィニズムの神とは異なる。もし折原のこの指摘が正しければ、羽入の批判はその効果を失うであろう。

 私見によれば、そもそもウェーバーにとってフランクリンは、議論のための導入手段であり、また理念型を構成するための素材であるにすぎない。また、フランクリンの倫理がどこまで世俗的かという問題は、ウェーバーにおいてはカルヴィニズムの倫理との比較の問題であるから、その世俗化の程度が現在の私たちと比較して宗教的であることは、何ら問題ではない。総じて言えば、理念型の妥当性をめぐる羽入の批判には、困難な点が多々見られる。その理由はおそらく、巨視的説明のために構成された「資本主義の精神」という概念を、フランクリンという一人の複雑な人間をリアルに捉えるために適用しているからである。しかし「資本主義の精神」とは、倫理のある一面を鋭く構成した方法装置であり、こうした理念型を批判するためには、むしろその説明力を超えるような、他の理念型構成とその適用を競合させなければならない。ポパー的に言えば、理論というものは、それよりもすぐれた別の理論が出現した場合に、はじめて棄却されるからである。

 もっとも私はここで、ウェーバーの理念型構成に問題がないと言いたいのではない。理念型をめぐる方法的問題は、たしかに存在する。またさらに、『倫理』における中心テーゼは、反論を寄せつけないほど強力というわけでもない。すでに代替的な解釈はいろいろと提出されている。アカデミックな歴史家の観点からすれば、理念型の構成とそれにもとづく『倫理』の中心テーゼは、あまりにも巨視的なスケッチにすぎず、他の歴史説明を否定するだけの価値をもたないようにみえるであろう。しかし逆に言えば、『倫理』は、「社会学ないし社会科学」の誕生を記念する作品として、固有の魅力をもっている。『倫理』が古典と呼ばれるのは、それが資料的に完璧なものだからではなく、斬新な方法に基づく知的探求のパトスを示しているからであろう。

もちろん、ウェーバーの「知的パトス」という魅力にあやかって、これを権威化することには問題があるに違いない。例えば折原は、羽入が「学問の常道」を自ら閉ざしていると批判しているが(九三頁)、しかしウェーバーの全業績を学ぶことが学問の常道だとする主張は、権威的に響きはしまいか。いや、折原のこの主張は、「学問の一般的規範」としての健全な権威を示すものかもしれない。何が健全で何が過剰な権威なのかについては、意見が分かれるところだろう。権威はすべて否定されるべきかもしれないし、反対に、挑戦すべき権威がなければ、多くの知性は触発されないのかもしれない。帰結主義的に言えば、権威は、後続の知性を触発する程度に存在することが望ましい。しかしその基準や様態は、時代によって変化していくだろう。

 

 

おわりに:論争の行方

 以上、羽入-折原論争を五つの争点に整理しながら検討した。論争に対して私は中立的な立場をとっていると僭称するつもりはないが、現段階でこの論争を評価するならば、羽入と折原は、ウェーバーの学問的意義を、より適切なトポスへ導いたのではないかと思う。すなわち、羽入の貢献によってウェーバー崇拝の効果が消え去り、また折原の反論によってウェーバーの知的貢献が救い出されているのである。

それにしてもこの論争は知的刺激に満ちている。羽入書は権威に抗するパワーに満ちており、また折原書は、羽入書をさらに越える文献考証的エネルギーを示している。ここで折原の反論をまとめるならば、次のようになろう。(1)羽入の批判によって『倫理』全体の論証構造が揺らいだわけではない、(2)ウェーバーは一学者として知的に不誠実な人間だとは言えない、(3)イギリスのプロテスタント諸派に対するルターの影響は証明されないが、この問題は『倫理』の課題ではない、(4)ルター訳聖書の「職業(Beruf)」をめぐる問題については、折原の反論によって羽入説が相対化される、(5)フランクリンと「資本主義の精神」の関係をめぐる羽入の批判の多くは、決定的なものではない。以上である。折原の反論は、全体としてみれば成功している。したがって「ウェーバーの巨像を指一本で倒した」という羽入の主張は、論争の第一ラウンドが終わった現段階では疑わしくみえるだろう。

もっとも折原は、羽入が破壊しようとしている「聖マックス」という巨像を救い出そうとしているのではない。むしろ、私たちがウェーバーと真摯に向き合うことの意義を主張しているのであり、そして私たちは本論争を通じて、ウェーバーを今一度読むことの面白さを手に入れたと言えるだろう。例えば、『倫理』の中心テーゼ――「プロテスタント平信徒たちの内面的苦悩と生活指針の変革が、その意図せざる結果として近代の職業精神をもたらした」――にとって、ルター(派)やカルヴァン(派)の指導者たち(あるいは聖書翻訳者たち)がBeruf “calling” といった概念を「職業」という確定した意味で用いたかどうかは、大きな問題ではないかもしれない。というのも、ウェーバーが最も関心を寄せているのは「平信徒たち」の行為であって、それは指導者や翻訳者たちの精神や行為とは大きく乖離しうるからである。これは単なる仮説であるが、ルター以降の聖書翻訳者たちがこれらの新しい訳語を導入した時点では、その訳語の意味は、脱文脈的で多方向に解釈を喚起するような、「概念ならざる理念」であったかもしれない。それは歴史を振り返る視点を持ち込んではじめて、「職業」という意味の萌芽を認めうる言葉だったかもしれない。また、“calling” の概念が「天職」の意味で普及したのは、もしかするとフランクリンよりも後の世代においてであった可能性もある。さらに別の問題として、ウェーバーが『倫理』における精神史の淵源をルターおよびルターに影響を与えたドイツ神秘思想家たちに帰しているのは、近代資本主義の駆動力をドイツの精神に帰すという、ナショナルな価値関心を背後に宿しているのかもしれない。すべてこうした疑問は、知的誠実性をめぐる道徳の問題というよりも、歴史認識とウェーバーの価値観点(およびその時代制約性)に関わる事実-評価の問題であるだろう。私たちは羽入の問題提起によって、さまざまな問題を改めて検討してみる機会を得たように思われる。

もっともこの論争を狭く受け止めるならば、それは「ウェーバー業界内の長老と鬼子の争い」として映るかもしれない。しかしその内容が意味するところは、ウェーバーに影響を受けた読者界に広く波及する。さしあたって今後は、羽入による応答が注目されよう。と同時に、この論争に関心を抱く人々や、応答責任を問われている人々からの発言も期待したい。論争を不毛なものにしないためには、論者たちの誇張的修辞を「読者へのエンターテイメント」として割り切っておこう。例えば、羽入がウェーバーを「詐術師」「犯罪者」「魔術師」と呼んでいることや、これに応じる折原が、羽入の議論はその出発点からして「無概念的感得」(学知的反省の欠如)の水準にあると批判することなどである。こうしたレトリックがもたらす快楽と憤怒に振り回されず、論争が実りある方向へ展開することを、私は心から願っている。

(本稿の草稿段階で、荒川敏彦、古川順一、矢野善郎の各氏からコメントをいただいた。記して感謝したい。)

 

【編集部より】『ヴェーバー学のすすめ』(折原浩著、小社刊)の刊行にあわせて、『マックス・ヴェーバーの新世紀』(小社刊)の編者の一人である橋本努氏に、初めて『プロテスタンティズムの倫理とその〈精神〉』をめぐる問題にふれる読者の方のために、わかりやすく論点を整理していただく論考をお願いいたしました。